ここは気ままに書こうと思っています。
日記とは名ばかり、更新は気まぐれです・・・(笑)
ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。

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今西祭2008
※『今西祭2008』を検索エンジンで検索しても、何も出ません。

年末のライブから約半年。昨日、大阪梅田AMホールでライブがありました。日記のタイトルは、今回のライブのテーマです。
今西というのは僕の後輩で、今回のライブの主催者です。まだ二十歳で、バンドを始めて1年半程しか経っていないのにしっかりと企画してくれました。お陰でとても楽しい一日を過ごす事ができた。ありがとう。

そして、真夏の様な気温と都会の熱気で、倒れそうなくらいの暑さの中集まってくれた多くのお客さん、いろいろと注文が多い僕らの演奏に快く対応して頂いたAMホールのスタッフの方々、本当に有難うございました。
お陰でとても和やかな雰囲気で、演奏する事ができました。


さて、今回の『C−H』は、ユニット名を『COOOH』に変え、
主要メンバー三人によるアコースティック・ライブという事でお届けしました。

歌・ギター・ピアノというシンプルな編成での演奏は、それぞれのメンバーが持つ個性や感性、音のエネルギーの輪郭がより際立ち、“空間に音を重ねていく”という感覚を、・・・純度が高いと表現すればいいのか、より純粋に感じることのできる演奏となり、僕にとっては多くの収穫がありました。

今回の主要メンバー三人は、今までに何度も音を出し合っているので、
もうそろそろ、お互いの手の内は知り尽くしているでしょう?と思っていましたが、全然そんなことはなかった。

同じ曲に対して、たとえ同じ感覚や解釈を持っていなくても、重なり合った音が不思議と同じ方向を向いている。数学や物理では説明ができないエネルギーの法則がこのメンバーにはあります。

今回のライブは、僕に新たな感覚を与えてくれたと思います。
次回は恐らくワンマンライブ、C−H祭です。
| 日常 | 05:54 | comments(3) | trackbacks(0)
順序
『周りの人々に感謝し、大切にして生きる。』

これ、当たり前の事である。
当たり前過ぎるから、これに反論する側の意見も容易に想像できる。
『自分の身が一番大事、周りはどうでもいい。』
おそらくこうであろう。

これはある種の精神論や。もっと現実的で具体的な話を書きたかったが、
あまりにもあんまりな事が多いので、精神論から入ってみる事にした。


上の2つは両極端な意見のように思える。
そして、この両意見はお互いが相容れないものやと考える人が多い。
ところがこの2つはとても密接に繋がりあっている。少なくとも僕はそう思っている。その理由を書いていこう。

『周りの人々に感謝、大切にして生きる。』
当たり前過ぎるが故にあまり真剣に考えようとしないこの意見だが、
物事は全て長所と短所を備えるもの。その短所や欠点をしっかり把握しないと、ものの見事に落とし穴にはまる。

 国際感覚に於いて、この意見を単独で歩かせるのは非常に危険な行為や。
例えば、日本政府は多額の資金提供(ODA)を中国に対して行ってきた。
中国はその莫大な資金を何に使ってきたやろうか?いつの間にやら、ODAのお陰で日本が苦しい思いをする羽目になっている。
“苦しい思い”というのは、何も食料やエネルギー資源だけの話ではない、
なんとそのお金で開発したミサイルが、こっちを向いている。

 貧困に喘ぐアジア、アフリカ諸国に対しての資金援助や物資の援助。
日本人はお人好しだとよく言われる。それは『こういう目的で使いなさい。』という条件も、『使ったら何に使ったか報告しなさい。』という条件も、何にもなしに資金提供するのが主な理由や。
援助しっぱなし。その結果、そのお金や物資を取り合うという新たな争いを生んでしまっている。結局、一番必要としている人々の手に渡る前に、武力と権力を持った人間がほとんど全てを奪い取ってしまう。
残った僅かなお金と物資を、飢餓に苦しむ人々が命を賭して奪い合う。
これは最早お人好しではない。残酷な行為ではないか?


 もっと身近な部分に焦点を合わせてみよう。
普段の生活で『周りの人々、そして物事の全てに感謝する。』という“行為”、その“行為”そのものに価値があると勘違いしていないやろうか?

 なんで感謝し、大切にせにゃならんのか?
答は単純明快。無になってしまうからである。死んでしまうからである。
決して「死ぬのは嫌じゃ」と言っている訳ではない。
今、生きているのは、この世に産まれる前から周りの人々が自分の周りにいてくれたお陰であって、突然何にもないところからポコッと出てきた訳ではない。

 それを大切にできないのは、今の自分を全否定することと同義や。
しかし全否定したところで、もう存在していまっている自分を「やっぱり無かった事に。」という訳にはいかない。感謝し、大切に思い生きる他以外、すでに選択肢が無い。

 この「感謝する。」という“行為”そのものに価値があると思い込み、
その目的や理由に焦点を合わせないが故に、訳の分からない事が起こる。
自分の身は確かに大事や。しかし同時に周囲への感謝の心も大事や。
この両意見は決して相容れないものなどではなく、密接に関わり合っている。
卵が先か、鶏が先か・・・ではないが、どちらかが欠落すれば、もう片方も欠落してしまうものだと思う。

こっちにミサイルが飛んできたら嫌だ、だからせっせと資金提供。
仲間外れにされたら嫌だ、だから何でもかんでも協調、イエスマン。

違う。
自分の利益、自国の国益、これは守り通さねばならない。
それと同時に、他人への感謝、他国への感謝も忘れてはならない。
そして、いくら良い行為であってもそれには必ず責任を伴う、
だからこそ正義と信念を持つ事が不可欠になってくる。

我が国日本は、日本国民は、それができた民族ではなかったか?
| 日常 | 06:51 | comments(0) | trackbacks(0)
『命』は大切ですか?
つい最近、なぜか「命は大切ですか?それは何故ですか?」
という質問が寄せられた。

ん?なんだこれは?迷惑メール?
ワシのサイトはボイストレーニングのサイトで、
人生案内のサイトではないんやけども・・・。
思わず便意が止まってしまった。

無視するほど怪しい内容ではないが、
質問した側の人間によってはかなりハードルの高い質問。
敢えてここで答えてみよう。



まず最初に、この質問自体が僕にとって『平和ボケ日本』を象徴するような
質問である、という事を示しておく。
生きることに必死な状態で、こんな事を考えるやろうか?
生死が自分の意思とは無関係にある非常時、考える事は
愛する大切な者をいかに守るか、そして願わくば何かを残してやりたい、
これではないかと想像する。

よって、僕が「命は大切だ。」と答える事を前提とした『それは何故か?』
という質問には答えられない。



それではつまらん。
そう思われるかもしれないが、仕方がない。



『なぜ命が大切なのか?』という質問に答えるためには、もう一つ付け加える前提がある。
それは“命は何よりも一番大切”という意味なのか、それとも
“一番ではないが、命は大切”という意味なのか、という前提。

質問者が『命が“何よりも一番”大切なのは何故ですか?』という事なら、
これに対する答えは「いいえ、大切ではありません。」となる。
一番大切なのは“正義”と“信念”である。

これを曲げてまで生きる事に意味は無い。それが有り得るとしたら、
『何がなんでも家族を守りたい。』という強烈な信念を持ち、その為に
どれだけ頑張っても自分の正義に矛盾する仕事にしか就けない、という
過酷な状況下に於いてのみ、やと思う。
ただ、これは“正義”も“信念”も曲がっていない。
それを貫くために矛盾した行動を取らざるを得ないというだけである。
『生きる事が一番大切』なのではなく、最低限の条件として生きていないと
愛する家族を、国を守れない、だから生きている、それだけの理由や。

だからこの質問には
「一番大切なのは正義と信念、つまり愛する者を守る事であり
生きる事そのものでは無い。」
こうなる。



『一番ではないけど、命は大切。』
こんな事をわざわざ言う必要はないんやけども・・・、
産んで、育てた者の苦労と与えてくれた愛はどうなる?
そもそも、その人一人の命を支える為にどれだけ多くの命を
奪っているのかを考えれば、答を出すのに1秒もかからない。

それを投げ出すというのなら、奪ってきた命を全て元通り返してからに
してちょうだいな。

よく「自分はこの世に必要ないんだ。」という内容の話を聞く。
そういう方に是非聞いてみたい。
「判断材料がまだ少ないのに、何故そう判断する?」と。

ちょっと話が逸れるが、僕は「なんでカメムシは生きとるんや?」と
ウ〜ンウ〜ンと考えた事がある。
臭いだけで何にも良い事がないじゃないか、と思っていたからや。
ところが、世界にはカメムシを食う民族がいた。
肉食性のカメムシは、害虫駆除にも使われる事も知った。
ちゃんと意味があり、必要とされていた。

そんなの代えが効くじゃん、と自虐的に言う人がいる。
代えは効くが代える必要性がないなら目の前にいる君でいい。
代えられたくないなら努力せんかい、何を贅沢な。
僕はそう思う。
案ずるより産むが安し、こういう言葉がこの国にはある。


以上が質問の僕の答えや。
交通機関の進歩やネットの普及で、国同士の距離はどんどん近くなっている。
「明日生きている保障は無い。」という思いで生きている
世界のツワモノ達はすぐ目の前にいて、そんな彼らを相手に、
『命は大切?』なんて悠長に考えている時間はない。
| 日常 | 07:18 | comments(9) | trackbacks(0)
ボクラハ イカサレテイル
片仮名で書くと、怪しさがグッと増す。
普通に書くと『僕らは生かされている。』になるが、そんな良く耳にする
いい話を書く訳ではないことは、片仮名にした事でお気づきいただけると思う。


僕は“無知”である事を罪だと思っている。
知らないというのは恐ろしい状態で、その罪に対する罰は
見事なまでに我が身に降りかかる。



ここ数ヶ月の間、物価の上昇が止まらない。
ガソリン等の燃料の値上げが、食べ物の値段にも影響を与えている。
エネルギーや食べ物のほぼ全てを輸入に頼っている日本、
エネルギーも然る事ながら、食べ物はそのまま直接生き死にに関わってくる。

日本は石油が出ない。欲しくても出ないもんは仕方がない。
しかし食べ物はどうやろう?国全体が砂漠に覆われた荒れた土地なら
厳しいかもしれないが、ここは水の国、日本。
いくらでも作れるはずや。
面積に対する人口の割り合いを考えると苦しいとは思うが、
それでも食料自給率39%という数字はあまりにも低いと感じる。




僕はここ数年、チェーン店で食事をしていない。
それには理由がある。

チェーン店というのは、大抵どこの場合も工場を持っている。
そして工場には、店舗での品切れ等がないように安定供給が求められると同時に、安く提供する為にコストを押さえる事に力を注ぐ。

商品の安定供給の為には、材料を安定して仕入れる必要がある。
その為に、チェーン店は農場などと契約を結ぶ。
「毎月これだけはウチに売って下さい。」と。

農場にとっては、まとめて大量に購入してくれるというメリットがある為、
契約を結ぶ事に承諾し、契約農場となる。
ここまでは悪い話ではない。

先程言った通り、安定供給ともう一つは『低コスト』や。
その為には材料を安く仕入れる必要がある。
そこで「毎月、これだけまとめて買うから安くしてくれ。」という要求を
農場に突きつける。契約を結んだ事で事業を拡大した農場も中にはあるやろう、今更「それは無理。」と契約を打ち切る訳にはいかない。
仕方無しに農場はその要求を呑まざるを得ない。

それが更に安く、安く、安く、となってゆけば、当然だが農場は
どうにもこうにも経営が困難になる。当たり前や。
結果、農場は閉鎖。日本は食糧自給率を更に下げる事になる。

『安く提供するのは経営努力じゃん。』そう言う輩がいる。
経営努力によるコスト削減は、『無駄を省く事』である。
無駄がない所から更に何かを省く事を、経営努力とは言わない。
そういうのは『搾取』と呼ぶ。

そして、その低コストを要求しているのは我々消費者や。
つまり、農場から搾取して彼らを苦しめているのは、
間接的ではあるが、我々消費者という構図になる。

ここ数ヶ月の石油価格の上昇を考えると、チェーン店のメニューは
もっと値上がりしてもおかしくないのに、価格据え置きのチェーン店もある。一体誰がそれを負担しているのか、考えた事はあるだろうか?

だから僕はチェーン店には行かない。
少し値が張ってもいいから、別のお店に行く。
お金が無い時は外食しない。



こんな事くらい、書店で500〜1500円くらいで転がっている本に書いてある。知ろうとすれば誰でも知る事ができるのに、
きっと今日もチェーン店は賑わうのやろう。

“無知”は“罪”や。
知らず知らずの内に誰かを苦しめている。そしてそれが回りまわって、
今、『食料値上げ』という形で我々の首を絞めている。
誰かのせいだけではない、それを叫ぶ者にも責任と罪がある。

食料自給率39%、
文字通り、我々は海外からの輸入で“イカサレテイル”。
そのニュアンスは“飼われている”に限りなく近い。
| 日常 | 05:53 | comments(2) | trackbacks(0)
謙遜っぽい・完璧っぽい・ぽいぽい
『謙遜(けんそん)』とは、例えば周りの方々に「すごい!」「立派!」
と褒め称えられても「いやいや、自分なんてまだまだです。」といったような態度でいる事を指す。

 僕は日本に根付いているこの文化が好きで、とても大切に思っている。



 一方で日本人は、完璧っぽいのを嫌うという文化があるという話を耳にした事が何度かある。
確かに、中途半端な完璧っぽい理論を突きつけられると、反撃しようとして、ちょっと脳の回転速度を上げてしまう。

 ところで、『完璧』っちゅうやつは、一体いかなるものぞ?
僕はドラムに歌に、最近はご機嫌にケーキも焼いちゃったりするが、
『完璧』など目に見えた事がない。どこまで突き詰めても、必ず欠けている
部分がある。仮に目に見えたとしても、そこには妥協がある。
『完璧』は妥協を許さない、そうやとしたらやっぱり目に見えた試しは
過去に一度もない。

 そもそも、八百万の万物には作用と反作用の法則がある。
どこかをいじれば、別のどこかがその影響を受けるやろうし、長所と短所というのは、コインの裏表のような関係にも思える。
そう考えると『完璧』とは自分の許容範囲を超えた部分でしか存在し得ないんや。

 自分では「完璧なんでないかしらん?」と思っていても、
自分よりも器のでかい人間が見れば、ダメダメに映っているかもしれない。
これはちょっとした恥さらしやな。自分では完璧と思っているモンが
全然そうは見られていないのやから、これほど恥ずかしい事はない。



 日本人の『完璧っぽい』のを嫌う文化を心の奥底で感じているのか、いないのか、
最近「自分なりに頑張っている。」といった表現や、「自分なんてダメダメですよ〜。」と言って、本当にダメダメな人や、わざわざダメなフリをする人がいる。
それは完璧なんて存在しない、だから自分のペースで頑張る事が大切。
といった考え方や、『完璧っぽい』と仲間外れになってしまいそう、という
不安に由来した行動なんやろうが、僕はこれに真っ向から反対する。

 いくら追い求めても完璧には辿り着かない。
結果、いくら努力したって『完璧っぽい』止まりになってしまうかもしれない。
だからといって努力を放棄するのは怠慢なんと違うやろうか?いくら追い求めても辿り着かない頂へベクトルを向けてこその努力や、僕はそう考える。

 更に言うなら、自分なりに頑張ってもダメなものはダメだと評価される。
謙遜して「自分はダメです。」と言っている人が「本当にダメだね。」
と評価されて、腹を立てるのはどうもおかしい。自分なりに頑張ってさえいれば、それだけでオールOKさ、というのは怠慢だと感じる。
ダメだ、という評価を受け入れる態度こそが謙遜や。
そうでないなら、それは『謙遜っぽい』だけでしかない。

 ついでにダメなフリをせんでもええ。精一杯やったって、それが完璧ではなく
『完璧っぽい』止まりかもしれないのに、フリをしたらもうなにが何だか
分からなくなる。


 結局、自分の中で追い求めているものに対しての自分の立ち居地を
謙遜するのであって、出すものは精一杯のモンを出さにゃいかん。
自分の描く理想の完璧を追い求め、一歩一歩努力し、
完璧っぽさ故の欠点や短所も把握しようとする姿勢がなければいかん、と思う。

 僕は『謙遜っぽい』のは、好きじゃない。
いくら努力したって評価がイマイチ君、それくらい熱い人間に
囲まれていたい。

でないと、顔の締りがなくなるやろう。
緩みっぱなしの顔で人生を過ごすのは、生き恥晒しなんと違うやろうか?
| - | 07:51 | comments(3) | trackbacks(0)
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